土曜日, 3月 19, 2005

クリストとジーンクロウドの夢



クリストとジーンクロウドの夢

枯れ木の並ぶ寂しい2月のセントラルパークに豪華なサフロンのカーテンが踊る.クリストとジーンクロウドの7500千のゲートが2週間半の期間ニューヨークを賑わせた。

26年の期間彼らは街と交渉し、結局は現代芸術を愛するブルームバーグ市長の影響が多かった.夢がかなったとは言いも、そのビジョンは明白に26年前クリストのイマジネーションには描かれていた。彼らの芸術は実現される前に既にできている、もはや、その一瞬の創造の「時」を視覚化している.つまり、クリストの描くドローイングは夢を伝える力があるのである。

セントラルパークは「都市計画の奇跡」と呼ばれる.ニューヨークという競争社会で土地物価が急激することを予想し、その中心に緑を残そうという野望がかなった結果、オルムステッドの天才的なデザインが生まれた。その規模はマンハッタン島の5分の1の地域である。歩道をすべて歩くと23マイル.どの地図を見ても一目瞭然であるが、ニューヨークが生きている街でいられる一つの理由である。

2千百万ドルのコーストを費用した「ゲーツ」だが、すべて資金は個人で集め、警察官の残業のコーストまで自費で払ったという。26年前に彼らの予想した時のセントラルパークは犯罪地域,ミスマネージメントの結果ゴミだらけの森になってしまったときだった.クリストとジーンクロウドにとって、この場に「美」をもたらす野望はユトーピアンなビジョンであり、それはニューヨークの最悪のシーンが前提にあった。 

クリストとジーンクロウドは同じ日に生まれた.彼はブルガリア、そして彼女はカサブランカに.パリで出会い、ニューヨークに移り、その後30年は同じSOHOの小さなアパートに住んでいる.私が彼らに最初に出会ったのは、銀座の画廊でのオープニングであり、その当時、彼らは「傘」のプロジェクトを茨城県でおこなっていたのである。

その当時学生であった私にとって、彼は現代美術のスターであり、尊敬していた.そのことを彼に伝えると、彼は常に「妻にもそれを言ってほしい」といった.その当時も、今も、クリストにとって一番の侮辱なことは妻のジーンクロウドが芸術のパートナーとして、芸術の世界に認められていないことであった.エゴの走る芸術の世界で自分の妻を常に表に出そうと言う彼の姿勢はごくまれなように感じたことを覚えている.

彼らにとって、芸術の原点はコラボレーションにあると言っても過言ではないだろう.それは夫婦として始まり、そのホストになる街、地域の住民も含め、そして、ゲーツのプロジェクトには3000人以上のワーカーを雇ったと言う.彼らはボロンティアしたい人たちを雇うことにしている.それは、芸術を通して、無職の人々が仕事を持つという体制を創りたかったからであり、またそのプロジェクトの地域の経済を助けるためでもあった。

9/11の後、おびえながらも将来に向かおうとしている我々ニューヨーカーにとって、このスペクタクルは何百万の観光客を世界中から招き、寂しい2月のセントラルパークを世界のアートのメッカに変えた.タクシーの運転手が「30年タクシーを運転して、こんなにパークが混んでいるのをみたことがない」と言う.私が娘を連れて行った土曜日は、どこに行っても歩道が人でいっぱいで、左右動くことができないほどの渋滞であった.これはビジネスマンのブルームバーグ市長が狙った最高の結果であったであろう.つまりアートは経済の要なのである。アートが庶民の日常会話に入り、これほど賛否のコメントを促したのもまれなことである。

セントラルパークは二度と同じように見えないだろう.Tシャツ、帽子などのグッズの売り上げ5百万ドル以上は作家にいかずにセントラルパークに寄付され、「現代都市の奇跡」の環境保存に使われる。そして、そのプロジェクトの誠実さを保ち、その創ったメモリーがこれからの唯一のアートとなるため、今取り外されているゲーツのすべて(100万スクエアマイルのサフロンのカーテンも含め)はリサイクルされる。かつて、ウイーンの舞台芸術家であったクリストにとって、ニューヨークと言う舞台は最高のバックグラウンドであった.そこに実現したサフロンの夢は、すねり機嫌なニューヨーカーにも笑顔をもたらせた。