土曜日, 1月 15, 2005

非凡な街


ある著者が「ニューヨークという街は『非凡』が通常であり、(普通の意味での)『通常』は不可能である。」 (“In New York, the extraordinary is ordinary and the ordinary is impossible”) と書いた。まさに十年以上このマンハッタンという島に住んでいると、その言葉が身にしみて感じられる。

私は高校生の頃、隣のニュージャージー州に住み、たびたび美術館、演劇を見に、ニューヨークに来た。その当時のタイムズスクエアーは騒然とし 且 つ物騒なところで、道を歩くにもドラッグの注射器がころがっていたり、売春女が42丁目をたむろしていて、ただ歩くにも勇気が必要とされたのを覚えている。郊外にある自家に戻り、その静けさの中、刺激が激しい町に敵対心を持ってしまうこともよくあった。つまり、街とは人間の非凡的な才能を開花させるのと同時に又、非凡な腐敗も生んでしまう場所であった。

アートの世界も同じことが言える.もはや、アートの世界にこそこの戦いが最も良く現れていると言っても過言ではないだろう。スージー・ガブリックという芸術家/著者はこのニューヨークのアートの世界を「地獄の郊外 (suburbia of Hell)」と呼ぶ。それは気が狂ったような競争と、大金によって操られる世界であり、又少数の者がそのトップに限られた時期のみ君臨しまた、すぐ蹴り落とされていく世界である.高校生のときに体験した42丁目を数倍に増した力でまさに「非凡」な者しか生きていかれないアートの世界になぜこの私のような者がその街に住むことが許されるのだろうか?その中に家族とともに住み込むとは、振り返ってみると常識には考えられないことである。

私と妻がニューヨークに住み込む決心をしたのも、芸術家としてであり、同時にある教会のプロジェクトの影響が大きかった.そのリディーマー長老教会の創設者であるティム・ケラー先生は私がニューヨークに来た1992年には200人の信者を導いていたが、今やその同じ教会には5千人が毎週日曜に集まる。彼と親しくなった私は彼の街に対しての思いを徐々に吸収するようになっていった.街に対しての彼の名言は多いが、ある冬の日、マンハッタン島を車で走りながら彼が私に語った言葉は忘れられない。

「私たちは街の一番高い建物の象徴するモノを礼拝している.もしも我々がこの街に集まるなら、まず自分に与えられた才能が磨かれることを望み、それが世界一と認められるまで自分を鍛えなければ生き残れない.しかしその結果自分の築いたモノを拝むようになったら終わりだ.我々は常に『神の街』を望まないと、結果として真の街を創るよりも、自分のエゴを拝んでしまう。」


「街」そのものを彼は礼拝の対象として考えているのである。彼にとって、人間は常に何かを「礼拝」するように、創造の神に創られていて、その神を礼拝しなければほかの何かを礼拝してしまう.そういうことが顕著にあらわれてしまうのが ニューヨークのような街なのである。あの貿易センタ−は我々の資本的社会のエゴを表していて、それを街の人々は常に「礼拝」しているのである。テロリストたちはこの象徴をニューヨークに住む我々を軽蔑するにもまして侮辱としていたのである。そして、そのアイディオロギーの嵐の中に、我々は巻き込まれていくのである。

アートはその渦中にあって表現すること。結局、「街」とは我々のアートなのである。そして、アートを通して自分自身を礼拝してしまったら悲しい・・・。聖書は庭園(エデン)で始まり街(黙示録の新しいエルセラム)で終わる.ケラー氏は、クリスチャンは乱れた街を愛する心を持つように、そしてその街の中に自ら住み込み、家族を育てることを勧める。新しい街は今我々の行動の中、生まれていく街なのである。

「街を愛する心」とは一体どのようなことだろうか?街を「愛する」こととは可能なのであろうか?これはかつて私が考えていなかったラディカルな考えであった.街に対して敵対心を持ってしまう我々がクリスチャンとして演ずるべき役割はイエスが語った「敵を愛す」ことを、街に対しても持つことである.愛とは、私たちの住んでいる乱れた環境が良い方面に変わると言うことを信じることではなかろうか.愛とは将来に希望を持つことである。

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郊外から引っ越してきた我々は、アメリカの「通常」とされる 裏庭(バックヤード)がないことを一番子供たちにかわいそうに感じることがしばしばであった.その当時のトライベッカはギャングの縄張りの一部でもあり、今のように住みやすい地域ではなかった.レストランも少なく、スーパーも地域に一つしかなかった.貿易センターで働く人々は賑やかに昼食をとりに降りてきたが、週末はがらんとしたゴーストタウンであった。

しかし市内に引っ越してからしばらく経って、私はケラー先生にこう言った。「あるとき、友達を待ち会わせるため、メトロポリタン美術館の階段に座っていていた。突然、ふと、この階段そのものが私のバックヤードだという思いに満たされた。」裏庭の代わりに美術館が与えられたのである。そして次男のCJはその近くの中学校に毎日地下鉄で通う.学校の後、彼を連れてヴェラスケス、レンブラントの展覧会を見る.そこにはその新しい街の萌芽があり、今不完全にも体験できる新しいリアリティーが私たちを誘う。


あの、9/11で世界中に有名になってしまったジュリアーニ市長は1993年、副司法長官時代にその立場と力を用い、ニューヨークのクリーンアップに計った。それはかつてにない徹底とした決意を持ってで警察から、消防署、また学校まで,ニューヨークを新しい街を作り変える野心的な計画であった。街に住む我々にとってもこの計画により、もたらせた街の変化革命的であった。地下鉄の中は私服警官が常駐、それを見たギャングのメンバーが逃げ出すシーンもたびたび目撃した.トライベッカも人口が増え、学校も次々建設された。観光客も増え、地域の経済も復活した。あのタイムズスクエアーがデズニーランドに変わったのも彼の影響であった。その裏には勿論その権威の乱用もあり、進歩主義のニューヨーカーにとって,一方に住み易さを讃えながらも,ジュリアーニ市長を非難する声も多かった.あの9/11の日も、民主党の市長候補を選ぶ日であり、その朝の反ジュリアーニ市長の声は大半であった。しかし,9/11の夜にはその同じグループが正反対の立場をとって彼をサポートする発言をし、彼の在職期間を延ばしたいという市民活動にと変わっていった。(ニューヨーク市長は8年間に限られている.皮肉なことにジュリアーニ市長が任期を8年に限る法律をきめたのだが・・・。しかし、ジュリアーニ氏がサポートした現市長ブルームバーグ氏が勝利をおさめたのも、9/11がなかったら考えられないことだった。)

そのジュリアーニ氏にも、9/11以後の暗い日々、徐々に彼の「街を変えよう」という心が、「街を愛する」思いに変わっていったと言う.眠れない日々をウインストン・チャーチルの伝記を読みながら、暗闇の今一番必要であることはリーダーとして希望を持つことであったことを再発見したと言う.それは現実の暗闇を無視することでもなく、理想に走るのでもなく、ある信仰も持つ行為であったのである。  

今、その「グラウンドゼロ」と言われる場を目の前にして、この文章を書いている.ケラー氏の勧めたことを行動に移した私たちにとって、あまりにも衝撃的に、また悲観的にも感じる場所である。ここに立つと、この街全体があるメモリアルとして見えるのである.そして、私のアートも徐徐にメモリアル・アートに変わりつつある。

写真ー次男のC.J.,イースター4月の朝、20